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『幕末維新のすべて (洋泉社MOOK) 』で、土佐藩、会津藩、新選組の概説を担当しました。

 幕末日本は、やじうま歴史話的に観ると、今のEUの状況に似ているところがあるかもしれませんね。ブリュッセル官僚+ドイツを江戸幕府として、イギリスを薩摩藩に見立てる、というような。特段、EUと幕末がどうのというより、古来、諸国連合というのは、同じ状況やなりゆきを持っていくものなのでしょう。

 新選組の土方歳三は戦死していますが、近藤勇は処刑。近藤処刑の法的根拠には大いに検討の余地があると思います。幕末明治維新期に、戦死・暗殺・切腹は平時より多くありますが、処刑者はきわめて少ない。本当のところ、近藤くらいではないでしょうか。最終的に朝敵となった中の大玉、徳川慶喜も、会津藩の松平容保も、函館戦争総大将にして函館共和国総裁の榎本武揚も、処刑などはされていないし、切腹させられているわけでもありません。榎本武揚などはその後、敵方だった明治政府の大臣を歴任しているわけですし。さまざまな条件と状況があってのこと思いますが、だとすると、なおさら近藤の処刑というのは際立ってくるように思います。


別冊宝島『日本の海賊・水軍の謎』で大航海時代英国のサー・フランシス・ドレークについて書きました。

 本は村上水軍の話が目玉なんですが、私は海賊まわりのよもやま話を担当して、大航海時代英国のサー・フランシス・ドレークについてちょっと書きました。

 ドレークは、アルマダの海戦でスペインの無敵艦隊を破った英国海軍の司令官。現在でも国家的英雄ですが、いわゆる海賊だったことはよく知られています。ただし、外国の研究者はドレークをPirate(海賊)扱いすることはあまりなくPrivateer(私掠船)船長として別に置きたがるようで、フィリップ・ゴスの「海賊の世界史」なんかではあからさまにそうなっています。私掠船というのは「戦争状態にある敵国の船については攻撃して積荷を強奪してよいという許可を自国政府から得た船」のことです。つまり、イギリスとスペインが戦争状態に入る1585年以降(1604年まで)はたとえば、カリブ海でのスペイン船やパナマ港への攻撃は「私掠船」行為で海賊行為ではない。いわゆる「カリブの海賊」は、ずっと後、ドレークから100年くらい後の話になります。

 ドレークは1580年、世界一周に成功(マゼランに次ぐ)して帰国します。この功績でエリザベス女王からサーの称号を得るわけですが、ドレークはマゼラン海峡から太平洋側に周り、チリ・ペルー沿岸で、すでに当地を植民化して物資をかきあつめていたスペイン船を襲いまくり金銀財宝スパイスを強奪しまくって航海を続け、英国に戻ってきたときには当時の英国国家予算の3倍額に相当する戦利品を確保していました。スペインと戦争状態に入る以前の話ですから、当然これは海賊行為です。このときエリザベス女王がその半分ほどをプライベートで受け取っていることはよく知られていますが、当時は極秘事項。公然の秘密ではあっても、外交上、ドレークの海賊行為とは無関係で押し通されました。

 エリザベス女王が収益したということはつまり、女王がドレークに出資していたということを意味します。ドレークをはじめ大航海時代の海賊は実は秘密裏の国家的事業で、政治家や事業家が海賊に出資するシンジケートが大いに機能していました(竹田いさみ著『世界史をつくった海賊』)。エリザベス女王(一世)が海賊に出資していたことは、1929年に大英博物館資料室で発見された収支伝票で初めて確認されたといいますから、シンジケートの存在についても、事実として明らかになったのはそんなに古い話ではありません。英国という国は、海賊を使ってスペインから横取りした資金でスペインと戦争をして講和し、海賊がもたらした資金でもって東インド会社を興して貿易経済を軌道に乗せたという、つくづくすさまじい国なわけですね。大航海時代から帝国主義時代というのは、スペインとポルトガルが拓いた経済ネットワークをイギリスとオランダとフランスが奪いにいくという図でありました。

 ドレークはじめ、シンジケートを通して出資を受けた海賊にはもちろん国家的バックアップはありません。公式には国とは無関係にやっている勝手盗賊ですから保障はまったくありません。そこに船舶保険の出目があり、ゆくゆくロイズの保険ビジネスとなっていく。ロイズの発祥はロンドンのコーヒーハウスですが、コーヒーハウスは、海賊シンジケートの取引会所がもともとなのだそうです。


宝島社の知恵袋BOOKS『マヤと古代文明 封印された真実』で「メソポタミア・インダス文明とスキタイの謎」のコーナーの執筆を担当しました。

 宝島社の知恵袋BOOKS『マヤと古代文明 封印された真実』で「メソポタミア・インダス文明とスキタイの謎」のコーナーの執筆を担当しました。

 メソポタミアの地では、農産物はしこたま獲れるけれども都市生活に必要な物品(用具、装飾品)造作のための原料、特に金属類(主に銅)は産出しません。金属類はもっぱら、アラビア海を海上ルートとして周辺数百~千数百キロ離れたアラビア海沿岸の他文明に頼んでいました。メソポタミアは周辺文明経済の一大消費地として機能していたわけです。他文明はメソポタミアから穀物類を輸入します。古代文明はそれぞれ別個にぼこっと存在していたわけではなくて、それぞれ交易ネットワークで連絡していて、必要なもの(欲しいもの)はどんな遠くへでも取りに行くのが古来、現在にいたるまで文明の性質のようです。

 最近の説で興味深いのはインダス文明についてのものかと思います。メソポタミアとインダスの間、イラン高原あたりにエラムという文明があり、その文明はもともとメソポタミアを相手にしていた交易文明でした。商売なのでエラムは当然、利ざやを大きくとります。メソポタミアはそこをコストカットするためにエラムに侵攻したりなどします。エラムはそれでいったん後退しますが、新たにトランスエラムという活動体をつくって交易を再開する。しかし、メソポタミア一辺倒の交易はリスクが高いので、エラムは自らの西方、インダス川流域に興っていた農耕社会地域に目をつけ、対貿易地域に育てるべく開発を始めた。それがどうやらインダス文明の起こりということらしい。インダス文明は先行文明による新規事業開発特区だったというわけです。

 教科書にはインダス文明は外来のアーリア人によって滅ぼされた、と書いてあることが多いわけですが、この説は現在、完全に否定されています。特に古代文明において顕著に語られますが「文明というものは必ず外来の征服者または抑圧されていた弱者層の反乱によって滅ぼされる」という闘争史観による文明交代の定説は昨今では大きく見直されていて、なかなかおもしろいようです。


『日本史再検証 キリシタンとは何か (別冊宝島)』で執筆に参加して戦国・江戸時代のキリシタン対策のコーナーをまとめました。

 教科書にも載っていて有名な秀吉の「バテレン追放令」は、天正15年(1587)6月19日付けで、国内のバテレン(外国人宣教師)に対して発布されました。20日以内に国外退去することを命じると同時に布教を目的としない往来は例外である、としています。日本人に対してキリスト教の信仰を禁じた命令書ではありません。
「バテレン追放令」は外国向けの命令書ですが、これの発布の前日、6月18日付けで、国内向けの命令書「キリシタン禁令」が出されています。11条からなっていて、ここでは1条目にキリスト教の信仰は自由である、と明記してあります(ただし、社会的地位による規制が他の条にあります)。
 この「キリシタン禁令」の10条目に「大唐・南蛮・高麗へ日本人を売ることは処罰にあたる。日本では、人の売買は禁止である」があります。秀吉は最終条で「牛馬を食うことはけしからぬ」などとも言っていますが、興味深いのは、秀吉はただ単に条令を発布するのではなく、それら条項については逐一、時のイエズス会日本副管区長コエリュに質疑しているということです(フロイス日本史)。
 コエリュは人身売買について「こちらも禁止したいが、日本人大名が売るのだからしかたがない」と答えています。戦の戦利品に敗者側の民衆が含まれるのは当時の常識でした。そういう姿勢のバテレンおよびポルトガル商人に対して秀吉は、「少なくとも今ポルトガル人の手にある日本人を解放せよ、対価を払う準備もある」と伝えています。
 これをもって秀吉の同胞愛を言い、禁キリシタンの大きな理由のひとつとする向きもあるようですが、私は、これについては、「対価を払う準備もある」の方に着目すべきだろうと思います。秀吉がここで考えていたのは、おそらく国際標準ルールの尊重であり、対等外交と国体・国力の保持でしょう。人と並べる誤解を恐れずに言えば、牛馬食についても、馬は荷物を運び戦場で仕えるために養育されたもの、牛は百姓の道具であるから、殺して食べるのは国内では駄目だ、と秀吉は伝えています。もっともコエリュは「馬は我々も食べない。牛食の習慣を止める事はやぶさかではないが、日本人が売りに来る以上確約はできない」と答えています。


『戦国史を動かした武将の書簡 (別冊宝島 2478) 』で、柴田勝家、豊臣秀吉、森長可、丹羽長秀、織田信長、島津義久、滝川一益、足利義稙の書簡について担当執筆しました。

 今年2016年1月に兵庫県たつの市で、賤ヶ岳七本槍のひとりとして有名な脇坂安治宛ての秀吉の朱印状が33通発見され、それについても書いたのですが、秀吉の天下統一事業の、特に実務の実際が垣間見える、たいへん興味深い史料でした。天正13年(1585)あたりのものを中心とした秀吉の33通は大発見で、新聞などでは、その中に「信長の時代とは違う」と書かれ信長を呼び捨てにしている書状が見つかったことで話題になりました。
 脇坂安治は当時、伊賀から京へ材木を運輸する役目を言いつけられていました。そのおかげで、越中北国攻めの軍勢からはずされていました。脇坂は秀吉に、北国攻めに出陣したい旨を申し出たようです。33通の中に、材木担当に任じたのに何事か、と秀吉が叱責する書状がありました。秀吉は別件別の書状でも、同じことに触れて叱責しています。
 秀吉はどうやらしつこくて細かい質というか管理姿勢をとっていたようです。集積地・下鳥羽に早く材木を着荷させるよう命じた短い書状の中では、材木の運搬水路にあたる地域の名をこと細かく上げ、その地域に荷が通過することを伝えて万事能率を高めるよう指示しています。
 材木は当時、城、付け城、柵、また鉄砲の鋳造用燃料として使われる最重要と言っていい軍事物資でした。大量の需要があり、大量に消費されます。それはもちろん運搬されねばならず、秀吉の天下統一事業のひとつには、水運流通網の、列島規模での整備がありました。秀吉が、材木運搬よりも戦での功績を求めた、いわば時代遅れの脇坂を叱責したのは当然だったと思えます。


「古代史再検証 『万葉集』とは何か」 (別冊宝島 2470) で、飛鳥京・藤原京・平城京の概説、聖武天皇治世と藤原仲麻呂、道鏡、大伴家持の半生、大宝律令と貴族体制などについて書きました。

「古代史再検証 『万葉集』とは何か」 (別冊宝島 2470) で、飛鳥京・藤原京・平城京の概説、聖武天皇治世と藤原仲麻呂、道鏡、大伴家持の半生、大宝律令と貴族体制などについて書きました。
 大宝律令は702年に文武天皇が諸国頒布した日本最古の成文法ですが、叙位および位階授与という制度が現在も生きているという点において、大宝律令は一部、千数百年後の今もなお効力していると言うことができます。正確には757年に改正された養老律令の位階制度が継がれているわけですが、養老律令の施行は藤原氏(仲麻呂)の政局操作の意味が強く、その中身は改正する必要の無い、つまり法令名が変わったくらいのことだったようです。
 養老律令が廃止された歴史はありません。一般的には明治維新までの存続とされるようです。平安のかなり早い時期に律令は形骸化したとされていますが、しかし、特に戦国の天下統一時期、幕末明治維新期には、この律令制度が政局変動の根拠とされ大いに活用されたように思います。
 で、この大宝律令・養老律令が、万葉集の現代的評価のひとつとして「貴族以外の民衆の歌が載っている(だから、すごい)」とされていることに大きく関係します。
 律令の大きな目的のひとつに地方行政の全国標準化がありました。地方役人は中央(つまり京(みやこ))から派遣され、律令で定められた権力と義務が与えられます。古代大陸の郡県制に範をとった地方官制の中央集権体制ということになりますが、これのおかげで京文化が地方に移植されることになります。山上憶良はぎりぎり貴族身分の筑前(今の福岡県あたり)の守で、大宰府の長官になった大伴旅人と筑紫歌壇という歌サロンをつくったのも律令の制度を大いに背景としています。そして、万葉集に収録されているいわゆる「民衆の歌」というのは、こうした地方役人が京の作法・手法をもって土地土地に伝わる歌を詠み直した歌なわけで、つまるところ万葉集はあくまでも京文化ということになります。万葉集をもって「日本は古来、帝から貴族、庶民にいたるまで同じように(または平等に)歌を詠み~」といった考え方はおそらく現代的に過ぎ、今にあっては浅い人権思想に落ちる危険があるように思います。


『坂本龍馬』 (洋泉社MOOK)で龍馬の生涯概説と、映像の中の龍馬、小説の中の龍馬、新選組との関係のコーナーを執筆しました。

『坂本龍馬』 (洋泉社MOOK)で、龍馬の生涯概説と、映像の中の龍馬、小説の中の龍馬、新選組との関係などについて書きました。龍馬の映画を調べていたら、戦前無声映画のお宝キャラクターだったことがわかりました。不勉強でしたが、阪東妻三郎も龍馬を演じるのが好きだったんですね。
 米国日本学者、マリアス・ジャンセンの『坂本龍馬と明治維新』(1961刊、1965訳書刊)を再チェックしたんですが、あらためて名著だと思いました。米国自由民主主義の肯定前提の研究書であるとはいえ、戦中のベネディクトの『菊と刀』もそうだと思いますが、結論に至るまでの、つまり結論はともかく、調査・分析は非常にフェアで勉強と参考になります。


「もっと知りたい! 真田丸」 (TJMOOK ふくろうBOOKS 宝島社)で「真田十勇士の謎」のコーナーを執筆しました。

「もっと知りたい! 真田丸」 (TJMOOK ふくろうBOOKS 宝島社)」で、6ページほどのミニコーナーですが、真田十勇士について書きました。
 ここで出てくる雪村も十勇士も架空の人物ですが、「真田十勇士」という名称が世に登場するのは大正2(1913)年。現代の方によっぽど近いヒーロー・キャラクターなわけです。ただ、その想像力の根っこは、夏の陣直後には歌われていたとされていますが、ともかく早い時期には流行っていたらしい「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退きたり加護島へ」の歌にあります。いわゆる「薩摩落ち」の伝説、秀頼も幸村も大坂の陣を生き延びた説もここから来ますが、それよりもこの歌は、当時の庶民がどれだけ秀頼に同情、または愛していたかの証拠になる歌だと見る方が面白いと思います。古来、時の政権を嫌って見るのがどうも日本の伝統のように思います。