『戦国史を動かした武将の書簡 (別冊宝島 2478) 』で、柴田勝家、豊臣秀吉、森長可、丹羽長秀、織田信長、島津義久、滝川一益、足利義稙の書簡について担当執筆しました。

 今年2016年1月に兵庫県たつの市で、賤ヶ岳七本槍のひとりとして有名な脇坂安治宛ての秀吉の朱印状が33通発見され、それについても書いたのですが、秀吉の天下統一事業の、特に実務の実際が垣間見える、たいへん興味深い史料でした。天正13年(1585)あたりのものを中心とした秀吉の33通は大発見で、新聞などでは、その中に「信長の時代とは違う」と書かれ信長を呼び捨てにしている書状が見つかったことで話題になりました。
 脇坂安治は当時、伊賀から京へ材木を運輸する役目を言いつけられていました。そのおかげで、越中北国攻めの軍勢からはずされていました。脇坂は秀吉に、北国攻めに出陣したい旨を申し出たようです。33通の中に、材木担当に任じたのに何事か、と秀吉が叱責する書状がありました。秀吉は別件別の書状でも、同じことに触れて叱責しています。
 秀吉はどうやらしつこくて細かい質というか管理姿勢をとっていたようです。集積地・下鳥羽に早く材木を着荷させるよう命じた短い書状の中では、材木の運搬水路にあたる地域の名をこと細かく上げ、その地域に荷が通過することを伝えて万事能率を高めるよう指示しています。
 材木は当時、城、付け城、柵、また鉄砲の鋳造用燃料として使われる最重要と言っていい軍事物資でした。大量の需要があり、大量に消費されます。それはもちろん運搬されねばならず、秀吉の天下統一事業のひとつには、水運流通網の、列島規模での整備がありました。秀吉が、材木運搬よりも戦での功績を求めた、いわば時代遅れの脇坂を叱責したのは当然だったと思えます。


「古代史再検証 『万葉集』とは何か」 (別冊宝島 2470) で、飛鳥京・藤原京・平城京の概説、聖武天皇治世と藤原仲麻呂、道鏡、大伴家持の半生、大宝律令と貴族体制などについて書きました。

「古代史再検証 『万葉集』とは何か」 (別冊宝島 2470) で、飛鳥京・藤原京・平城京の概説、聖武天皇治世と藤原仲麻呂、道鏡、大伴家持の半生、大宝律令と貴族体制などについて書きました。
 大宝律令は702年に文武天皇が諸国頒布した日本最古の成文法ですが、叙位および位階授与という制度が現在も生きているという点において、大宝律令は一部、千数百年後の今もなお効力していると言うことができます。正確には757年に改正された養老律令の位階制度が継がれているわけですが、養老律令の施行は藤原氏(仲麻呂)の政局操作の意味が強く、その中身は改正する必要の無い、つまり法令名が変わったくらいのことだったようです。
 養老律令が廃止された歴史はありません。一般的には明治維新までの存続とされるようです。平安のかなり早い時期に律令は形骸化したとされていますが、しかし、特に戦国の天下統一時期、幕末明治維新期には、この律令制度が政局変動の根拠とされ大いに活用されたように思います。
 で、この大宝律令・養老律令が、万葉集の現代的評価のひとつとして「貴族以外の民衆の歌が載っている(だから、すごい)」とされていることに大きく関係します。
 律令の大きな目的のひとつに地方行政の全国標準化がありました。地方役人は中央(つまり京(みやこ))から派遣され、律令で定められた権力と義務が与えられます。古代大陸の郡県制に範をとった地方官制の中央集権体制ということになりますが、これのおかげで京文化が地方に移植されることになります。山上憶良はぎりぎり貴族身分の筑前(今の福岡県あたり)の守で、大宰府の長官になった大伴旅人と筑紫歌壇という歌サロンをつくったのも律令の制度を大いに背景としています。そして、万葉集に収録されているいわゆる「民衆の歌」というのは、こうした地方役人が京の作法・手法をもって土地土地に伝わる歌を詠み直した歌なわけで、つまるところ万葉集はあくまでも京文化ということになります。万葉集をもって「日本は古来、帝から貴族、庶民にいたるまで同じように(または平等に)歌を詠み~」といった考え方はおそらく現代的に過ぎ、今にあっては浅い人権思想に落ちる危険があるように思います。