別冊宝島『日本の海賊・水軍の謎』で大航海時代英国のサー・フランシス・ドレークについて書きました。

 本は村上水軍の話が目玉なんですが、私は海賊まわりのよもやま話を担当して、大航海時代英国のサー・フランシス・ドレークについてちょっと書きました。

 ドレークは、アルマダの海戦でスペインの無敵艦隊を破った英国海軍の司令官。現在でも国家的英雄ですが、いわゆる海賊だったことはよく知られています。ただし、外国の研究者はドレークをPirate(海賊)扱いすることはあまりなくPrivateer(私掠船)船長として別に置きたがるようで、フィリップ・ゴスの「海賊の世界史」なんかではあからさまにそうなっています。私掠船というのは「戦争状態にある敵国の船については攻撃して積荷を強奪してよいという許可を自国政府から得た船」のことです。つまり、イギリスとスペインが戦争状態に入る1585年以降(1604年まで)はたとえば、カリブ海でのスペイン船やパナマ港への攻撃は「私掠船」行為で海賊行為ではない。いわゆる「カリブの海賊」は、ずっと後、ドレークから100年くらい後の話になります。

 ドレークは1580年、世界一周に成功(マゼランに次ぐ)して帰国します。この功績でエリザベス女王からサーの称号を得るわけですが、ドレークはマゼラン海峡から太平洋側に周り、チリ・ペルー沿岸で、すでに当地を植民化して物資をかきあつめていたスペイン船を襲いまくり金銀財宝スパイスを強奪しまくって航海を続け、英国に戻ってきたときには当時の英国国家予算の3倍額に相当する戦利品を確保していました。スペインと戦争状態に入る以前の話ですから、当然これは海賊行為です。このときエリザベス女王がその半分ほどをプライベートで受け取っていることはよく知られていますが、当時は極秘事項。公然の秘密ではあっても、外交上、ドレークの海賊行為とは無関係で押し通されました。

 エリザベス女王が収益したということはつまり、女王がドレークに出資していたということを意味します。ドレークをはじめ大航海時代の海賊は実は秘密裏の国家的事業で、政治家や事業家が海賊に出資するシンジケートが大いに機能していました(竹田いさみ著『世界史をつくった海賊』)。エリザベス女王(一世)が海賊に出資していたことは、1929年に大英博物館資料室で発見された収支伝票で初めて確認されたといいますから、シンジケートの存在についても、事実として明らかになったのはそんなに古い話ではありません。英国という国は、海賊を使ってスペインから横取りした資金でスペインと戦争をして講和し、海賊がもたらした資金でもって東インド会社を興して貿易経済を軌道に乗せたという、つくづくすさまじい国なわけですね。大航海時代から帝国主義時代というのは、スペインとポルトガルが拓いた経済ネットワークをイギリスとオランダとフランスが奪いにいくという図でありました。

 ドレークはじめ、シンジケートを通して出資を受けた海賊にはもちろん国家的バックアップはありません。公式には国とは無関係にやっている勝手盗賊ですから保障はまったくありません。そこに船舶保険の出目があり、ゆくゆくロイズの保険ビジネスとなっていく。ロイズの発祥はロンドンのコーヒーハウスですが、コーヒーハウスは、海賊シンジケートの取引会所がもともとなのだそうです。


宝島社の知恵袋BOOKS『マヤと古代文明 封印された真実』で「メソポタミア・インダス文明とスキタイの謎」のコーナーの執筆を担当しました。

 宝島社の知恵袋BOOKS『マヤと古代文明 封印された真実』で「メソポタミア・インダス文明とスキタイの謎」のコーナーの執筆を担当しました。

 メソポタミアの地では、農産物はしこたま獲れるけれども都市生活に必要な物品(用具、装飾品)造作のための原料、特に金属類(主に銅)は産出しません。金属類はもっぱら、アラビア海を海上ルートとして周辺数百~千数百キロ離れたアラビア海沿岸の他文明に頼んでいました。メソポタミアは周辺文明経済の一大消費地として機能していたわけです。他文明はメソポタミアから穀物類を輸入します。古代文明はそれぞれ別個にぼこっと存在していたわけではなくて、それぞれ交易ネットワークで連絡していて、必要なもの(欲しいもの)はどんな遠くへでも取りに行くのが古来、現在にいたるまで文明の性質のようです。

 最近の説で興味深いのはインダス文明についてのものかと思います。メソポタミアとインダスの間、イラン高原あたりにエラムという文明があり、その文明はもともとメソポタミアを相手にしていた交易文明でした。商売なのでエラムは当然、利ざやを大きくとります。メソポタミアはそこをコストカットするためにエラムに侵攻したりなどします。エラムはそれでいったん後退しますが、新たにトランスエラムという活動体をつくって交易を再開する。しかし、メソポタミア一辺倒の交易はリスクが高いので、エラムは自らの西方、インダス川流域に興っていた農耕社会地域に目をつけ、対貿易地域に育てるべく開発を始めた。それがどうやらインダス文明の起こりということらしい。インダス文明は先行文明による新規事業開発特区だったというわけです。

 教科書にはインダス文明は外来のアーリア人によって滅ぼされた、と書いてあることが多いわけですが、この説は現在、完全に否定されています。特に古代文明において顕著に語られますが「文明というものは必ず外来の征服者または抑圧されていた弱者層の反乱によって滅ぼされる」という闘争史観による文明交代の定説は昨今では大きく見直されていて、なかなかおもしろいようです。