『日本史再検証 キリシタンとは何か (別冊宝島)』で執筆に参加して戦国・江戸時代のキリシタン対策のコーナーをまとめました。

 教科書にも載っていて有名な秀吉の「バテレン追放令」は、天正15年(1587)6月19日付けで、国内のバテレン(外国人宣教師)に対して発布されました。20日以内に国外退去することを命じると同時に布教を目的としない往来は例外である、としています。日本人に対してキリスト教の信仰を禁じた命令書ではありません。
「バテレン追放令」は外国向けの命令書ですが、これの発布の前日、6月18日付けで、国内向けの命令書「キリシタン禁令」が出されています。11条からなっていて、ここでは1条目にキリスト教の信仰は自由である、と明記してあります(ただし、社会的地位による規制が他の条にあります)。
 この「キリシタン禁令」の10条目に「大唐・南蛮・高麗へ日本人を売ることは処罰にあたる。日本では、人の売買は禁止である」があります。秀吉は最終条で「牛馬を食うことはけしからぬ」などとも言っていますが、興味深いのは、秀吉はただ単に条令を発布するのではなく、それら条項については逐一、時のイエズス会日本副管区長コエリュに質疑しているということです(フロイス日本史)。
 コエリュは人身売買について「こちらも禁止したいが、日本人大名が売るのだからしかたがない」と答えています。戦の戦利品に敗者側の民衆が含まれるのは当時の常識でした。そういう姿勢のバテレンおよびポルトガル商人に対して秀吉は、「少なくとも今ポルトガル人の手にある日本人を解放せよ、対価を払う準備もある」と伝えています。
 これをもって秀吉の同胞愛を言い、禁キリシタンの大きな理由のひとつとする向きもあるようですが、私は、これについては、「対価を払う準備もある」の方に着目すべきだろうと思います。秀吉がここで考えていたのは、おそらく国際標準ルールの尊重であり、対等外交と国体・国力の保持でしょう。人と並べる誤解を恐れずに言えば、牛馬食についても、馬は荷物を運び戦場で仕えるために養育されたもの、牛は百姓の道具であるから、殺して食べるのは国内では駄目だ、と秀吉は伝えています。もっともコエリュは「馬は我々も食べない。牛食の習慣を止める事はやぶさかではないが、日本人が売りに来る以上確約はできない」と答えています。